行事

電気記念日は3月25日。日本で初めて電灯が点灯された日。

行事

3月25日は
電気記念日(でんききねんび)です。

日本で初めて
電灯が点灯されたことにちなみ
1927年(昭和2年)に
日本における電気事業の発祥を記念するため
日本電気協会が制定しました。

日本電気協会は、
1892年(明治25年)
日本電燈協会として発足し
明治28年5月に「日本電気協会」と改称しました。

由来

電気記念日(でんききねんび)は、
1878年(明治11年)の3月25日
日本で初めて電灯がともされた日であり
1887年(明治20年)3月25日から
日本で家庭用の配電が始まった事に由来する記念日です。

開局祝賀晩餐会

国際的な広がりをもつようになった電気通信は
合理的利用のために
世界的に標準化である必要があったため
1865年(元治2年)
パリで「万国電信連合」という
国家間の協定に基づく
電信に関する国際機関が設立されました。


日本は
「万国電信連合」に加盟する準備として
工部省電信局(明治政府官庁の1部局)は
東京・木挽町(現:東銀座)に「電信中央局」を開設し
1878年(明治11年)3月25日
開所式が挙行されました。

その開局を祝い、開局祝賀晩餐会が
東京・虎ノ門の工部大学校(東京大学工学部の前身)の
講堂大ホールで行われ
そこで
日本で初めて「アーク灯」が点灯され、
参列の人々を感嘆させた日です。


アーク灯は
 アーク放電を使った照明で
 2本の炭素棒を向かい合わせて
 それぞれ電池の電極に接続します。

 電極を最初に接触させてから少し離すと
 先端でアーク放電が起こり発光します。

 放電により炭素を加熱することで、
 炭素棒が白熱し強い光を発します。

工学寮

工部省は
欧米諸国の先進文明に触れ
国家の産業近代化を推進していくため
1870年(明治3年)に設置された
明治政府の官庁の1つです。


工部省所管のもとに
1871年(明治4年)
 工業技術者養成機関の「工学寮」という
 寄宿舎付きの学校を設置。 
 
 基礎教育を行う小学校と
 専門教育を行う大学校の二校体制でしたが
 小学校は
 経費節減のために明治10年6月廃止されました。
 
大学校は
1873年(明治6年)
 土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山の
 (のち明治15年に造船学科が加わる)科が設けられ
 「工学寮工学校」として
 イギリス人教師9名の来朝を待って
 学生募集が行われ開校。
  
1877年(明治10年)
 工学寮が廃止され「工部大学校」と改称。
 
1885年(明治18年)
 工部省の廃止に伴い文部省に移管され、
1886年(明治19年)
 東京帝大に吸収合併され「帝国大学工科大学」となりました。


当時、
世界でも稀にみる最も総合的な工科大学として
その教師はすべて優秀な若い英国人学者を雇用し
世界一流の英国式技術教育を取り入れました。

彼ら若い英国人は
日本に近代科学の精神と技術を植え付けることに
強い使命感を持って臨み
明治の日本に
世界で最も充実した
工学の教育機関「工部大学校」が産まれたのでした。


世界では、
電気についての研究は
すべて物理学科の一つの講座に留まっていましたが
日本での
「電(electric)」の字が使われる教育機関は
世界で最古の電気系学科といわれています。

つまり
世界で最初に電気工学系の学科を設置し、
教育を開始したのは日本であるということです。

アーク灯点灯

開校に伴い
明治政府の招聘(しょうへい)により
電信科の初代教授に赴任したのが
英国人のウィリアム・エドワード・エアトンです。

1878年(明治11年)3月25日の
中央電信局祝賀晩餐会において
当時
工部卿(こうぶきょう:工部省の長官)の伊藤博文から
物理学と電信学を担当していたエアトン教授は
アーク灯を点灯させることを命じられました。

エアトン教授は
第3期生(明治14年卒)の
藤岡市助(ふじおか いちすけ )、
浅野応輔(あさのおうすけ)、
中野初子(なかのはつね)らを指揮して
グローブ電池50個を使って
電灯(フランス製アーク灯)の点灯に成功させます。

これが我国において
公開の席で電灯が灯された最初の瞬間でした。

午後6時ランプを消し
点灯時間は15分と短くて
デモンストレーションのようでしたが
講堂は隅々まで青白い光に照らされ
大臣、各国公使をはじめとする
150人を超える来賓に驚きと感銘を与え
その明るさに
当時の人々は文明の光を感じたといいます。

「藤岡市助伝」や新聞記事には、
「夕刻よりエアトン氏調節のもとに電灯は点灯せられ
 宴会席上は白夜の感を呈し、
 貴客拍手して大いにこれを歓迎したが、
 それは束の間で、
 やがて会場にシューという音を聞くと同時に、
 アーク線は切れて宴席はたちまち暗黒となる」 との事が
 記されてあるようです。
 
 
 アーク灯は
 電極が少しずつ消耗し、
 次第に輝きが弱くなってついには消えてしまいます。
  
 グローブ電池は
  硫酸に白金線を入れることで酸素と水素が供給され
  電気エネルギーが生産されます。


この時に使用された
 フランス製のデュボスク式アーク灯は
 (デュボスクは有名な人物名)
 天井に 
 「吊るされた、設置された」などの記述がありますが
 普通は
 テーブルなどに置く形状のもので
 どのように吊るしたのか詳細は分かりません。
 

ウィリアム・エドワード・エアトン


多くの授業は英語で行われ
エアトン教授は
優秀で抜群と評価されていました。


エアトン教授が設計した
工部大学校の物理学実験室もまた
世界で最も充実したもののひとつと言われ
明治8年に着任した土木学科ペリー教授は
エアトン教授の物理実験室を見て
世界で類例のない素晴らしさだと感嘆したほどです。

エアトン教授は
学生の教育の傍ら
寸暇をも無駄に費やすことを嫌い、
朝早くから夜遅くまで研究に没頭し
ペリー教授とともに開発に熱中し
計測系の機器を多く発明して
英国の学会誌に発表し続けました。

偉大な物理学者マックスウェルが
「電気学の重心が日本に移った」と
彼らの研究を評したという話も有名です。

一種変わり者とも言われ
余りに厳しく高潔な人柄の人物で
非常に勤勉な研究一途のエアトン教授ですが
実業を重んじ、
実験を通じた体験的な学問の大切さを教え
その
手ほどきを受けた電信科学生は約20余名。

志田林三郎、浅野応輔
藤岡市助、中野初子らほか、幾多の人材を育て
イギリスへ留学生として多く送り出し
新興国日本に
電気工学の基礎を築き発展に寄与しました。


語録

「諸君は卒業したら
 日本国中のどんなところで職につくか分からない。
 日本の現状は
 ヨーロッパ諸国と違って分業が発達していないから、
 万事自分でやらなければならない。
 そのときに臨んで、暗記教育では応用動作が鈍くて、
 理論をやった人のようには機敏には行かない。
 このことをよく考えておいて、
 いつ島流しにあっても
 自分一人でその職責を全うできるように心掛けて勉強せよ。」


「人の真似をするなかれ、
 何事によらず決してこれを真似ることなく
 さらに一層良いものを作るよう
 また発見するよう心がけなければならない。」

1873年(明治6年)から明治11年まで
工部省工学寮で教え
英国に帰国後も
当時の英国を代表する電気学者として活躍されました。

一般人の見た初めての電灯

1882年(明治15年)11月1日

東京銀座2丁目の大倉組商会前
(銀座松屋百貨店の向かい)に、
東京電灯会社(とうきょうでんとうがいしゃ)が
街灯を設置しブラッシュ式アーク灯を点灯しました。

これが一般の人が見た
初めての2000燭(しよく)の灯りでした。

2000燭は
ろうそくが2000個ある位の明るさという意味で、
大倉組は、今の大成建設の前身
東京電燈は、東京電力の前身です。

2000燭光といわれる
その光源の明るさは大きな話題を呼び
大勢の見物客が連夜つめかけ
「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と
例えらたと言われています。


1870年代には
個人住宅と商業施設のほとんどはガス灯が使われていました。

アーク灯は、
光が強すぎ、寿命も短く、電源装置も高価なことから
家庭用へ使用範囲を広げることはできませんでした。


東京電灯が
燃料は石炭の日本初の火力発電所の運転を開始し
1887年(明治20年)3月25日から
(日付に疑問有?)
一般向けの電気供給を始めたという
電気記念日の話でした。

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