「忠犬ハチ公」の日は、4月8日です。
飼い主亡き後の帰りを、東京・渋谷駅の前で
約10年間のあいだ待ち続けたという犬で
あまりにも有名なその美談は
「ハチ公物語」の邦画や
「HACHI 約束の犬」のハリウッド映画にまで伝えられ
人を慕うハチ公の一途な姿が人々に感銘を与えましたが
忠犬と呼ばれるようになる前は
実は
いじめにあいながらも忠犬を貫いた「ハチ」でした。
忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会が制定し
1936年(昭和11年)年から、
4月8日に慰霊祭が行ることから
「忠犬ハチ公」の日とされています。
ハチ公物語
忠犬ハチ公の話は
皆さんもご存じとは思いますが
生誕
秋田県の
北秋田郡二井田村大子内
現:大館市大子内(おおだてしおおしない)の
斎藤義一宅で
父犬:大子内山号、
母犬:胡麻号の間に生まれました。
上野博士との出会い
ちょうどそのころ、
東京帝国大学(現:東大)農学部教授の
上野英三郎博士は
純系の日本犬を捜していました。
それを知った博士の教え子である
世間瀬千代松氏は、
部下の栗田礼蔵氏と知り合いだった斉藤宅から
子犬を譲り受ける事を意図します。
1924年(大正13年)1月14日、
ハチを譲り受けた価格は30円(当時)であり
生後50日前後の幼犬は
米俵に入れられて大館駅を出発し
急行列車の荷物車に載せられて20時間後、
東京の上野駅に到着します。
それから
東京府豊多摩郡渋谷町(現:東京都渋谷区)に住んでいた
上野博士のもとへ送られました。
幼犬は「ハチ」と名付けられ
先住犬2匹と仲良く暮らしていました。
上野博士は大変な愛犬家であり
愛情をもって育てられたハチは
主人である上野博士を
通勤する渋谷駅まで送り迎えするようになり
時には3匹そろって駅へ行くこともあったようです。
上野博士の突然の死
1年余りが経った
1925年(大正14年)5月21日
いつものようにハチに送られて出勤した博士は
教授会会議の後に脳溢血で倒れ
上野博士は突然亡くなってしまいます。
その時、
ハチはまだ1歳半位です。
ハチの悲しみはあまりに深いものがあり、
食事も口にできない程の状態が
3日間も続いたといいます。
魂というものが亡くなったのを
本能で感じたのかもしれませんね。
その後ハチは
10年間渋谷駅で
上野博士を待ち続ける運命になります。
それからの2年間
その後
上野博士が亡くなって
世話をしきれないと考えたのか
ハチの飼い主は
日本橋の呉服屋、
浅草の高橋家、
渋谷の上野家、
そして小林家へと、めまぐるしく変わります。
まず親戚の
日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられますが
客が来るとすぐ寄り添い
人懐っこいハチの性格から商売にならず
浅草の高橋千吉宅へと預けられます。
高橋宅では
散歩中に8キロも離れた渋谷方面に逸走すなど
上野博士を慕う心は相変わらずでしたが
ハチが原因で近所の住人ともめごとが起こり
ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまいます。
上野宅では
近所の畑を走り回り
畑作物に被害を及ぼすなどの事から
今度は
渋谷の隣である
代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住んでいた
上野宅出入りの植木職人の小林菊三郎が
ハチを幼少時から可愛がっていた事もあり
渋谷へ走るハチの心情を想い預ります。
時はすでに1927年(昭和2年)の
上野博士が死亡してから2年余りが経つ頃でした。
この頃から渋谷駅で、
上野博士が帰宅していた時間に
ハチが頻繁に目撃されるようになります。
小林宅から約800m先の
上野博士宅に必ず立ち寄り、窓から中を覗き込み
その後
渋谷駅の改札口前に
いつの日もじっと座り続けたのです。
小林宅を
毎日午前9時頃出かけ、しばらくすると戻り
夕方は4時頃出かけ
戻るのは午後5時過ぎから6時頃でした。
小林宅に戻っては食事を済ませ
また渋谷駅に向かうという事を繰り返し
故主を待つようになりました。
いじめ
当時、
駅前をうろつく「大きい犬」のハチを
全ての人が温かい目で見ていたわけではなく
どちらかというと
いたずらされたり暴力を受けるほどで
駅周辺の
商売人や通行人や子供など
人々から邪険に扱われており、
水をかけられ、追い払われたり
顔に墨で落書きをされたり
首輪を盗まれる事は何度もあって
野良犬と間違われて、虐待を受けるようになっていました。
それでもハチは
人間や仔犬に対しては決して
牙を向けたり吠えたりしませんでした。
忠犬ハチ公誕生
上野博士を迎えに渋谷駅に通う
ハチのことを知っていた人物がいます。
日本犬保存会初代会長の
斎藤弘吉(さいとう ひろきち)氏です。
彼は
南極地域観測隊の「タロとジロ」や
他の樺太犬救出のために尽力した人物でもあります。
渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ
ハチの事情を朝日新聞に寄稿し
1932年(昭和7年)10月4日付
「いとしや老犬物語」と題して掲載され
“今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間”と
写真入りで報道され、人々の心をを強く感動させ
さらに翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され
有名となったハチは
人々に感銘を与えたことから「ハチ公」と尊称され
「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになりました。
一転して人々は同情を寄せるようになり
駅周辺では
みんながハチを可愛がり面倒を見るようになり
渋谷駅でも
ハチが駅で寝泊りすることを許すまでになり
こうしてハチは
一躍、国内外で知られる事となったのです。
1933年(昭和8年)11月3日
東京上野公園で開催された
犬の展覧会(日本犬保存会主催)で人気者となり
世界的な愛犬団体「ポチクラブ」から
ハチが表彰されます。
1934年(昭和9年)3月に
尋常小学校の修身教科書二巻に、
「恩ヲ忘レルナ」というハチの物語が採用されます。
同年4月21日
彫塑家・安藤照氏が、
ハチの美談に感動し忠犬ぶりを称え
初代の「忠犬ハチ公像」が完成し
渋谷駅前に設置され除幕式が行われ
その除幕式にはハチ自身も参列しました。
同年5月10日
鋳造の忠犬ハチ公臥像が
天皇(昭和天皇)、皇后、皇太后(貞明皇后)に
献上されました。
また
同年11月15日公開の
映画「あるぷす大将」(監督:山本嘉次郎)に
ハチが出演しました。
ハチの死
1935年(昭和10年)
フィラリアにより3月5日容態が急変し
その3日後の3月8日早朝、
普段はハチが行かない場所である
渋谷駅の反対側で死んでいるのを発見され
13年(人間にすると約90歳)の
忠犬たる一生を終えたのです。
フィラリア症が致死原因ではなく
心臓に重度の浸潤性癌があり
肺に転移性の癌があることが確認され
尚、ハチの左耳が垂れているのは
一度だけ
野犬に噛み付かれて軟骨が損傷したためです。
ハチの死後、
渋谷駅では3月12日にハチの告別式が行われ
上野博士と同じ青山霊園に葬られ
亡き主人の墓のすぐ隣に寄り添うように祀られました。
ハチの亡骸は剥製にされ、
上野の国立科学博物館に保存されており
ハチのふるさと大館では
大館駅前の「ハチ公像」前で、
毎年4月8日にハチ公慰霊祭、
10月の第2日曜日には、ハチ公生誕祭を実施し、
今は亡きハチを想い偲ぶのです。
ハチには
亡き上野博士の姿が
見えていたのかもしれませんね。
10年も待っていたのではなく
10年間一緒に散歩していたように思います。
その後の年表
1935年(昭和10年)7月8日
大館市の大館駅前に
忠犬ハチ公の銅像が建設され除幕式が行われる。
1944年(年昭和19年)
昭和16年からの太平洋戦争により
金属類回収令が公布され、
渋谷の「ハチ公銅像」が供出される。
1945年(昭和20年)
同じく金属類回収令により、
渋谷のハチ公銅像と同様に、
大館の「ハチ公銅像」も供出される。
1948年(昭和23年)
ハチ公銅像再建委員会が結成され、
募金により渋谷駅前に「ハチ公銅像」が再建。
再建直後
来日したヘレン・ケラーが
渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。
1964年(昭和39年)5月
大館駅前に、ハチ公の若い頃の姿を中心に
「秋田犬群像」が建設される。
1987年 8昭和62年)11月14日
大館駅前に
ハチ公銅像が再建され、除幕式が行われる。
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